この作品は、「クリスチャン映画を成功させる会」でも早くから話題にし、劇場公開をしてくれないか、あるいは成功させる会のクラウドファンディングによる日本語版自主制作の可能性はどうかと注目していましたが、ソニー・ピクチャーズが2023年11月より配信公開し、しかもお金のかかった吹替版で観られることになりました。
何と言ってもこの作品は、通常のフィクションドラマではなく、1960年代末から1970年代にアメリカ全土に広がった若者たちを核にしたジーザス・ムーブメント(信仰のリバイバル)の実話に基づいているということがすばらしいところです。なぜなら、神様がお許しになれば、そして私たちがその大切なところを真剣に取り入れれば、再び起こりうる可能性を内包しているからです。そして、教会(牧師も教会員も)が高齢化し、将来に向けてその現実に対応しきれていない多くの日本の教会の現状を考えるとき、映画の舞台となった時代から半世紀を経て、今、この映画を日本にお送りくださった摂理とも言うべき“神様の時”(伝道者の書/コヘレトの言葉3:1)にも感謝します。
この映画の製作・監督は、「アイ・キャン・オンリー・イマジン」「君といた108日」などで知られるクリスチャン映画製作者ジョンとアンドリューのアーウィン兄弟。
ストーリーは、アメリカが泥沼化したヴェトナム戦争に多くの若者を送り込んで戦死させ、その国家管理下で夢も希望も失った多くの若者たちが、本当の自由を求めてヒッピー生活に入っていった1970年代。映画は、南カリフォルニアを舞台に、夫に捨てられ、酒と男性で孤独を慰めようとする母親に育てられながら、自由と生きる意味を求める高校生グレッグ・ローリー(ジョエル・コートニー)と、娘を愛するあまり、彼女の自由を認めず、その心まで支配しようとする父を持つキャシー (アナ・グレイス・バーロウ)との出会い、一方で、自分の牧する教会から若者たちが去り、信仰歴が長く教条化している古い信徒を抱え、活路を求めていたチャック・スミス牧師(ケルシー・グラマー)と、そこを訪れたヒッピーのカリスマ路上説教師ロニー・フリスビー(ジョナサン・ルーミー)の出会いがあり、この2つの流れがやがて1つになって、すばらしいムーブメントになっていきます。後半では、師弟、同労者、恋人同士、親子の間のさまざまな軋轢や対立なども描かれますが、ネタバレになるので紹介は控えます。
映画の最後は、このムーブメントを、「若者たちのレボリューション(革命)」と評価するビリー・グラハムの説教シーンも交えた字幕で、この3人の出会いが、若者だけでなく、全米を巻き込んだアメリカ史上最大規模の“Spiritual awakening 霊的覚醒”を引き起こし、今も、日本を含め世界に影響を与え続けていることを知らせます。
観終わって思ったことは、①私の通う教会も含めて、上述のような現状にある日本の教会のクリスチャンにまず一人でも多く見てほしい。②そして、この映画を単にアメリカに起こった事実として客観的に見るだけで終わるのでなく、何がこのムーブメントを起こさせたのか、既存の教会に何が欠けているのかを検証することが急務であり不可欠だ、ということでした。
日本の教会は、ざっくり言うなら、多分に信仰が教条的・律法主義的になり、伝統と規律により牧師や役員が教会をコントロールしていて、新しいことを受け入れない教会と、教会のかしらであるイエス様を賛美し、聖霊の導きを大切にして新しい人々を喜んで迎え入れ、イエス様を伝えている教会とに分かれていると思います。前者には主として伝統のある大教会が多いですし、後者はいわゆる聖霊派の教会と言ってもいいでしょう。心しなければならないのは、私の教会も含め、福音派と呼ばれる教会にも、高齢化に伴い次第に前者のような教会が増えているという事実です。
映画の中の、チャック・スミスは、牧する教会が前者型になりつつあることに気づき、たまたまやってきたロニーの会衆への関わり方に、自分にも自分の教会にもいつのまにか失われていた大切なことに気づきます。それは、いわば“初めの愛”に帰ることでした(黙示録2:4,5)。ロニーが会衆一人一人に語りかけ、肩を抱き、やがて彼らと共同生活をして食卓を囲み、ほどなく手狭になった教会を出て、海辺で多くの人にバプテスマ(洗礼)を施す姿は、聖書に描かれた2000年前のイエス様の姿、そして初代教会の姿を彷彿とさせました。
羊の群れを教会の中で正しく主イエスに導き、養うのは牧師であり、リーダーたちです。この映画で私が教えられた正しいリーダーシップは次のようなものでした。
①受容: 若い人々、自分と違う考えの人を、ありのまま受け入れること。チャックの教会が変わったのは、一目してヒッピーと分かるロニーを、そのまま受け入れ、彼に教会でメッセージすることを許したことが始まりでした。これは言うは易く、現実にはとても難しいことです。リーダーがまず、知らないうちにかなり硬直した自分の考えを脇において、新しい考え、新しい人々を受け入れる勇気を持つことです。
②賜物を認め、引き出し、生かす: 彼らに活動の場を与え、全面的に支持し、励まし、感謝し、褒めること。
③仕える: “サーバントリーダー”に徹することです。映画の中で、裸足のまま教会に出入り(ではいり)する若い人々に「教会のカーペットが汚れる」と批判する古参会員の前で、チャックがたらいで若者たち何百人もの足を一人一人洗う姿は、ヨハネ13章のイエス様の姿と重なります。
④正しくコントロールする: これは教会を“支配”することとは違います。牧する群れが、間違った方向に行かないように、正しい方向に導くことです。ロニーは大会衆を前に語っているとき、心にある霊的な“促し”を受けます。そして外見では分からない様々な心身の病を抱えた人を見つけ出し、癒やします。彼には癒やしの賜物があったのです。やがてそれが彼のミニストリーの大きな部分を占めるようになりますが、チャックはその彼に、癒やしはやめるように言い、それに従わない彼を解雇します。ロニーはただ新たに示された癒やしの賜物を用いただけでした。チャックも、決してロニーの才能や人気を妬んだのではありません。
ただ彼は、このままいけば、自分の教会はカルト化し、人々はイエスをではなく、ロニーを“メシア”としてあがめていく危険性を感じたのです。正しいコントロールにも、時として勇気と決断が要ります。“イエスをかしらとする教会”を保つために、チャックの決断は正しかったと思います。たとえそのために、別離・分離という大きな犠牲が伴うとしても――。
最後に、映画のエンド字幕では、実在の3人の、それぞれに伝道の生涯を全うした記録が流れます。その中で、一度は袂を分かったチャックとロニーが、やがて和解し、協力してさらに大きな働きを成したことも語られます。キリストの体なる教会も、人間的には罪と欠けだらけの人々の群れです。時に分裂も避けられませんが、このように、麗しい再和合が実現したのは、お互いの間に、キリストの十字架で結ばれた“愛”があったからだと信じます。
イエス・キリストが33年半の生涯で説かれたのは、神の愛=人の罪を赦し、敵意ある人々の心を結ばせるために、ご自身の独り子をさえ送られた、まことの愛でした。教会がこの愛に満ちるとき、ジーザス・レボリューションは、今も、あなたの教会に、私の教会に起こるのです。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。
(コロサイ人への手紙3章14節)
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」
(ペテロの第1の手紙4章8節)
(予告編・吹替) https://www.telasa.jp/trailer/223025
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