
本編後、エンドロールが始まってもしばらくは席を立てなかった。それは他の方がまだ座って鑑賞していることに配慮したのではない。映画が真に訴えたかったメッセージに打ちのめされたからである。本作ラストの展開は、ある意味キリスト教2千年の息の根を止めにきたと言っても過言ではないだろう。それくらいの衝撃と動揺が私の体中を駆け巡った。いや、今も駆け巡っている。キリスト者として、また牧師として、この映画の着地点をどう受け止めたらいいのか? 帰りの電車の中、ただひたすら宙を見つめながら考えることしかできなかった――。
まず、思い起こしたのは、是枝裕和監督の「怪物」である。古くは「羅生門スタイル」とでも言うべきだろうか、とにかく人の話が右に左に、黒に白にと反転する。そしてどれが真実か、全く分からない迷宮の中を私たち観客も彷徨(さまよ)うことになる。主人公のローレンス司教が半ば閉じ込められるような形で建物の中を行き来するように、私たちも彼の視点で目の前に起こっている出来事を見、そして感じることを強要される。まさに密室劇の真骨頂である。

初めは誰が誰なのか分からない中で会話劇として展開する物語だが、いつしか各々の役割が私たちに咀嚼(そしゃく)できるようになっていく。挿入される様々なエピソードが絡み合い始め、スクリーンで展開する地味な絵面(えづら)とは裏腹に、彼らの背後にある本音が醜くも淀み出てくる様を見せつけられることになる。しかもその醜悪さを醸し出しているのが、神に仕えることを生業(なりわい)としている司教たちであることを受け止めなければならない。これは予想外の苦痛だ。
いっそ強欲な不動産王だとか新進気鋭の実業家であれば、それほど観る側は苦しくはならない。自分の欲望に忠実に生きることを良しとする資本主義に隷従している輩なら、「そんな世界もあるよね」と少し突き放した捉え方ができるだろう。しかし残念ながら目の前で愚かにも奸計を練り、相手を罵倒しているのが(一応は)同じ神を信じているキリスト者、しかもその指導的立場にある方々なのである。本作は、クリスチャンとして信仰に熱心な方ほど息苦しさを人一倍感じることになるだろう。

映画の白眉は突然やってくる。これには驚いた。今までの静謐(せいひつ)な展開が一気に覆される(このあたりのことは、予告編でも描かれているのでネタバレには当たらないだろう)。これは「ジョーカー フォリア・ドゥ」でも使われた手法だが、おそらく初回では誰もがびっくりするはずだ。そして今まで「静」に支配されてきた場所と時間が、実はこの世から「人工的に隔絶された環境」でしかないことに気づかされる。私たち観客も含めて、あまりにも非日常的な空間の中で迷走していたことに気づかされる瞬間である。
後から考えると、教皇選出のために各々の司教が決められた文言を唱え、そして自らが推挙する人物の名前が書かれた投票用紙を投票箱(というか、ほぼ壺)の中に入れていくという一連の所作は、すべてこの静謐破りのためにあったのだと気づかされる。同時に、そこに割って入るあの展開こそ、もしかしたら「神の見えざる手」なのかもしれないことに思い至るのである。「一体、人間風情が何を気取って、全知全能の神の名を口にしていたのか?」と問い詰められているような気まずさすら感じられた。

この「事件」以後、むき出しになるのはまさに人間のエゴである。司教としての威厳も優雅さもどこかへ吹き飛んでしまっている。大言壮語する者、疑心暗鬼に陥る者、そして長い物には巻かれよとばかり「多勢に無勢」をかこつ者…。それは罪深き人間の「あるがまま」である。劇中、ある人物が「教皇選挙こそ、戦争だ!」と叫ぶシーンがある。主人公のローレンス司教は、当初は「何を大げさな…」という反応だが、ここに至ってその真意を理解することになる。そして、今までのすべての伏線が露(あら)わになるとき、キリスト教会2千年の歴史に対し、現代的な「最後通告」が突き付けられるのである。
「そうか、この作品はここに私たちを導きたかったのか――」
その瞬間から、私の時間が止まってしまう。本作は2時間の大作である。しかし実はそのほとんどが「前振り」である。もちろん前振りだけでも十分面白く、いろいろ考えさせられるが、それが着地点へ巧妙に練り上げられた伏線であったことが判明した時、ミステリーの醍醐味を存分に堪能することになる。「してやられた!」と思いながらも、不思議と悔しい気持ちにはならない。むしろここまで見事に騙してもらうと、一種のすがすがしさすら感じられた。

本作は、第97回アカデミー賞において作品賞、主演男優賞(レイフ・ファインズ)、助演女優賞(イザベラ・ロッセリーニ)、脚色賞、編集賞、美術賞、衣装デザイン賞、作曲賞の8部門にノミネートされている。もしも助演女優賞でシスター・アグネス(イザベラ・ロッセリーニ)が受賞するなら、本作の着地点が大衆に受け入れられたことを意味するだろう。
映画は常に現実世界の一歩先を行く。未知の世界を「あり得るでしょ?」と私たちに提示する。私たちはこれを「作り話だ」と一笑に付すこともできる。しかしそうやって切り捨てる前に、ふと立ち止まって考えることが必要だ。「果たしてこんな未来は本当にあり得ないのだろうか?」と―。
本作を一言で評するなら、「映画ならではの手法で突き付けられたキリスト教への挑戦状」である。「~たら」「~れば」は歴史にはないと言われている。しかし映画の世界なら、これらを縦横無尽に描くことができる。そしてそのようにして描かれた未来世界を、実社会と地続きであると思わせられるのが映画の魅力、魔力である。実社会で真面目に講演会やデモを行うことで変えられる世界がある。しかしそれは一進一退を繰り返すことになり、際立った結論がなかなか見えにくい。その点、映画は確かにフィクショナルなだけにはっきりとした「未来予想図」を描き出すことができるし、実社会で生きている私たちに問うことができる。「あなたはこんな未来に生きることはできるか?」と…。

本作は、クリスチャンである人ほど悩みの淵に追いやられる可能性が高くなるであろう。しかしそれを製作者は意図しているとも言えよう。全世界の3分の1がキリスト教徒である。そのことを踏まえるなら、少なくとも二十数億人の鑑賞者はこの作品を無視することはできないはずである。
あなたがキリスト者を自任しているなら、ぜひ3月20日に劇場に足を運んでもらいたい。そしてこの映画からの挑戦状に向き合ってもらいたい。あなたにも、ラストに訪れるあの「迷宮」に迷い込んでもらいたい。そこで私は待ってます――。
そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。(マタイ 16:18)
公式ホームページ⇒https://cclv-movie.jp/
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