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神の恵みとその裏話㊾ 映画「ボンヘッファー ~ヒトラーを暗殺しようとした牧師」クリスチャンが、今なぜディートリヒ・ ボンヘッファーを知るべきか

クリスチャン用のポスター
クリスチャン用のポスター

ナチスに抵抗した映画の主人公

ナチスに抵抗した映画は多くあります。例えば「白バラの祈り」、「名もなき生涯」、「ワルキューレ」などです。これらの映画と今回の「ボンヘッファー」との違い、それがこの映画を今のこの時代に公開する意味だと思います。上記3作品と映画「ボンヘッファー」との決定的な違いは、今回の主人公がキリスト教の牧師であったということです。それくらいのインパクトを私たちクリスチャンに与える作品になっています。

 ドイツがキリスト教国として歴史を積み重ねてきたことを踏まえるなら、宗教が国家の趨勢をいかに左右したか、という一つの証左となります。つまり映画「ボンヘッファー」は、私たちクリスチャンに最も「刺さる」映画だということです。

© 2024 Crow’s Nest Productions Limited
© 2024 Crow’s Nest Productions Limited

 

映画「ボンヘッファー ~ヒットラーを暗殺しようとした牧師」

 原題「Bonhoeffer: Pastor. Spy. Assassin.」は、直訳すると「ボンヘッファー:牧師、スパイ、そして暗殺者」となります。各々の時代で彼が担った役割にフォーカスするなら、確かにこの3つです。しかし映画の中でボンヘッファーというキャラクターの底流にあるのは、やはり「牧師」です。劇中、彼は神にこう祈ります。「主(神様のこと)よ、私の十字架はどこにありますか?」と。これは聖書の次の言葉に基づいています。

「それからイエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。』」マタイ16:24

映画の中からは、おそらくこの言葉に基づいて、彼は「高価な恵み」という概念に至ったのだと推察できます。そして収容所にいる他の犯罪者(おそらく政治思想犯)たちの精神的支柱となっていきます。しかしそれは、彼自身を絞首台への階段を一段ずつ登らせることになるのです。しかしボンヘッファーは躊躇しません。

 映画では、「牧師ボンヘッファー」が最期の聖餐式をこれから処刑される人々に対して執り行います。パンと葡萄酒を配り、これを食します。これこそが彼らにできる最後の抵抗、そして信仰者として「高価な恵み」を体現する行為だったからです。映画の原題が「ボンヘッファー:牧師、スパイ、そして暗殺者」となっているのはそのためです。あくまでも「牧師」が一番です。これは本作において、絶対に揺るがないベクトルです。そして観る私たちに大きな感動、そして「あなたはどうか?」という問いを与えてくれます。

 

最大の罪か、最大の愛か

多くの人がボンヘッファーという人物を知ったとき、「牧師なのにどうして暗殺計画に加担したのだろう?」と思います。彼が暗殺計画に牧師として関わることを表明した当時も、「牧師なのにどうして?」と問う者が当然いました。その問いに対してボンヘッファーは次のように答えています。

「(暴走している)車にひかれた犠牲者に包帯を巻いてやるだけでなく、車そのものを停めることこそ、牧師の仕事である」

ここに彼のオリジナリティーがあります。クリスチャンは、自らの命を犠牲にして他者を生かすことこそ「最大の愛」の行為だと受け止めています。そして彼が見いだした「高価な恵み」の源泉もまた、多くのキリスト者の心に共鳴している「信仰」と同じものです。イエス・キリストの十字架への憧憬と言ってもいいでしょう。

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イエス・キリストが私たちの罪を身代わりに引き受けて下さり、十字架の上でその尊い命を犠牲にしてくれたからこそ、私たちは生きることが許されている、と捉える信仰理解です。ボンヘッファーの「ボンヘッファー」たる所以は、この信仰を自らの行動で表明する勇気を持っていたということです。

ヒトラーを「暴走する車」に例え、「たとえ運転手からハンドルを暴力的に奪うことになっても、それこそが神の民(クリスチャン)を愛する行為ではないのか?」と力強く問うことができたのです。だから彼にとって「キリストに倣う」行為とは、人々のために自らの命を犠牲とすることでした。その論理的帰結が「ヒトラー暗殺」だったのです。決して逆ではありません。

「最大の罪か、最大の愛か」―。映画のキャッチコピーは、本作を通して私たちに投げかけられる「問い」の本質を表しています。現代を生きる私たちは、この時代にクリスチャンとしてどう生き、どう行動するべきなのか? キリストの愛をどのような形でこの世界に示していくのか? もちろん第二次大戦下のボンヘッファーと同じ行動(為政者の暗殺)ではないでしょう。

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これだけ世界に格差が拡がり、武力のみならず経済のシステムを用いて諸外国を従わせようとする国家指導者が跋扈する現代社会において、私たちクリスチャンは何を指針とし、どう行動していくべきなのか? もはや「待ったなし」の問いに向き合うことから逃れられません。だからこそ、ボンヘッファーというケーススタデイを通して私たちは互いに語り合うことができます。語り合う中で、信仰者としてのアイデンティティーを確認し合えるのです。

本作は、周囲から見るなら罪を犯したとしか見えない人物の生き様に最も大きな愛を見いだすことができる、という逆説が描かれています。これは、十字架で処刑されたキリストこそが救い主であるという「キリスト信仰の本質」と同じ逆説性です。

 

そう考えるなら今回製作されたこの映画は、クリスチャンである私たちこそ、観るべき作品です。彼の言葉は、日本で信仰を育んでいるクリスチャンの心に届けられるべきです。現代をたくましく生き抜くクリスチャンとなるために、本作は一人でも多くの方に鑑賞してもらう必要があると確信しています。


それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。マタイ16:24 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行

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