神の恵みとその裏話(53)第7回 長崎・五島・外海 黙想の旅レポート-道路は沈んでも、信仰は沈まない証し
- Michio Isokawa

- 5 時間前
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2026年5月、第7回「長崎・五島・外海 黙想の旅」を、DVD『神の沈黙 キリシタン弾圧と原爆』の監修をしてくださった東京基督教大学特別教授・山口陽一先生をチャプレンに迎えて実施しました。今回の旅は、長崎・五島・外海(そとめ)という三つの地域を一つの物語としてたどるこのツアーの特徴がより鮮明に表れ、参加者の皆様から「まだ数日なのに、一か月いたような濃さを感じた」との声が寄せられるほど、深い学びと恵みに満ちた旅となりました。
初日は長崎市内から巡りを始めました。出島ワークで美しい港を見ながら美味しいランチをいただき、その後二十六聖人殉教地を訪れ、爆心地公園に立ちました。原爆が投下されたその場所には、かつての浦上天主堂の壁が遺構として残されており、わずか数秒で街も人も信仰も引き裂かれた現実を前に、平和のための祈祷をしました。

永井隆博士が療養しながら執筆を続けた如己堂(にょこどう)では、博士が「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉を生涯の中心に据え、破壊と喪失のただ中で平和を祈り続けた姿に触れました。原爆の悲惨さと、なぜ神は沈黙されたように見えたのかという問いが、心の奥に静かに響きます。
浦上天主堂では、第1回「乙女峠と萩・津和野・山口黙想の旅」につながる岩永ツルが萩で拷問を受けた石を前に、信仰を守り抜いた人々の痛みと強さを思い起こしました。このツアーの特長でもあるガイドの説明と資料が相まって、参加者の皆様は「観光ではなく、歴史の中に立っているようだった」と語ってくださいました。また、現在の長崎市は浦上地区を除いて反キリスト教的な空気が強いというガイドの説明に、参加者は驚きを隠せませんでした。
二日目は大浦天主堂を訪れ、潜伏キリシタン発見の劇的な場面に触れました。後にガイドから、潜伏キリシタン発見の中心人物であるイザベリナ杉本ゆりの弟・溝口市蔵が浦上随一の大工であり、大浦天主堂の建築に関わっていたという新事実を伺いました。これまでは、ゆりは「マリア像があるかどうか確かめに行った」と理解していました。

しかし、弟が建築に携わっていたことを知っていたゆりにとって、そこにマリア像があることは確信に近いものであったと考えられます。ゆりが「殺されてもよい」という覚悟をもって天主堂を訪ねた理由が、より深く理解できました。
初日に訪問したドミニコ教会跡や、長崎で最初に献堂されたトードス・オス・サントス教会跡を訪れるのは、長崎がかつて“小ローマ”と呼ばれ、荘厳な12の教会があったが、禁教令によってわずか2週間で破壊されたという事実を知るためです。国家権力が誤った方向に進んだとき、信仰がいかに脆(もろ)く扱われるかを痛感します。
その後、船で五島へ渡り、楠原教会、水ノ浦教会、堂崎天主堂を巡りました。大浦天主堂の喜びの後に起こった五島崩れの迫害を学ぶことで、信徒たちがどのように信仰を守り抜いたのかが立体的に理解できます。夜の食事会では、五島唯一のプロテスタント教会である五島キリスト教会の中村聖架牧師が、証ししてくださいました。病と家族の介護を抱えながら伝道を続けておられる姿に、参加者は深く心を動かされ、現代の宣教の厳しさを知る貴重な時間となりました。
三日目は旅の核心ともいえる久賀島の訪問です。12畳の牢屋に200名が8か月閉じ込められた「牢屋の窄(さこ)」に立ち、信徒たちが耐え抜いた苦難の現場を体感しました。

上五島では、世界遺産の頭ヶ島教会、青砂ヶ浦教会を訪問しました。船内では山口先生による「キリシタンの歴史」講演が行われ、旅の学びが一本の線として結ばれていきます。
最終日は、遠藤周作が深く愛した外海地区を巡りました。黒崎教会を後にした直後、思わぬ出来事が起こったのです。待機していたバスの道路が突然陥没し、タイヤが穴にはまってバスが動けなくなってしまいました。代行バスが到着するまで約1時間を要し、結果として最後の訪問地であった「祈りの岩」へ行くことは叶いませんでした。

しかし、この時間こそが旅の恵みとなったのです。参加者全員がスーツケースの運搬を手伝い、誰一人として不平を言わず、むしろ運転手を励ましておられました。その姿に、キリスト者としての優しさと強さが自然に表れ、今回の旅を象徴する場面となりました。
長崎・五島・外海を一度に巡る旅にこだわっているのは、そこに「キリシタンの物語」が一つの歴史として流れているからです。迫害、潜伏、信徒発見、そして原爆、現代の宣教へと続く歩みが、地域ごとに断片ではなく一つにまとまった旅となり、参加者一人ひとりの信仰の歩みと重ね合わせることができたはずです。
原爆の地を歩き、永井隆博士の如己堂に立ち、遠藤周作の「沈黙」の舞台を巡る中で、「なぜ神は沈黙されるのか」という問いが、250年間の迫害と1945年の破壊という二つの歴史の前で重なります。沈黙は不在ではなく、苦しむ者と共におられる神の深い痛みであったのではないかと考えさせられます。
今回も多くの方が「信仰が新しくされた」「また参加したい」と語ってくださいました。共に歩んだ皆様に心から感謝し、またいつか、この旅をご一緒できる日を願っています。

たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。詩編23:4 口語訳

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