神の恵みとその裏話(55)この秋、映画『ミッション』4K版が、この秋日本で公開!―赦しと和解の物語――しかし、それだけでは終わらない。
- 青木保憲

- 2 日前
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更新日:1 日前

1987年4月、私の地元から1時間半かけて観に行った映画が『ミッション』でした。当時、絶対無理と言われていた大学入試で見事合格し、結構暇を持て余していた18歳の私は、川から流れてくる十字架に人が括(くく)りつけられている予告編を見て衝撃を受けたことを覚えています。「リアル・イエス様だ!」となったわけです。世界史を選択していたこともあり、大航海時代におけるスペインやポルトガルのラテンアメリカへのキリスト教布教活動についても、教科書レベルでは聞きかじっていました。また、「カンヌ映画祭グランプリ!」と宣伝文句が魅力的であったことも否めません。実は、大学生になったばかりの私にとって、「カンヌ映画祭」が何かすら分からなかったのですが…(笑)。いずれにしても当時の私はちょっと背伸びして「大人の映画」を観に行こうと意気込んでいたのです。

本作『ミッション』は、主演の二人(ロバード・デ・ニーロ、ジェレミー・アイアンズ)の心の葛藤と信仰者としての心の変遷、そしてカトリック対抗宗教改革以後の暗部を描く歴史大作です。18世紀の南米。罪を背負った傭兵ロドリゴ(ロバート・デ・ニーロ)と、先住民グアラニー族を守ろうとする宣教師ガブリエル(ジェレミー・アイアンズ)。彼らは植民地支配の圧力に抗い、信仰と人間の尊厳を賭けた闘いに向き合うこととなります。
音楽はエンニオ・モリコーネ。個人的に大好きなのは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の宗教性豊かな旋律である。監督はローランド・ジョフィ。1984年に前作『キリング・フィールド』でアカデミー賞作品賞にノミネートされ、一躍世界的監督となっています。
映画公開から40年、なんと本作が4Kレストア版としてスクリーンに帰ってくることになりました。喜ばしい限りです。あの衝撃、感動が再び大画面で堪能できるという朗報を受け、本作をどうして今観るべきなのか、について三つのポイントで語ってみたいと思います。
① 対抗宗教改革以後のキリスト教世界を知るために
1517年、マルティン・ルターによって引き起こされた宗教改革は、瞬く間にヨーロッパ全域へその影響を拡大していきました。彼の主張を肯定的に受け入れてプロテスタントとなる選択をした支配者もいれば、逆に今まで以上にカトリックへ固執する者もいました。
やがてプロテスタント勢力を認めざるを得なくなったカトリック教会は、トリエント公会議(1545〜1563年)によって、既存のヨーロッパ世界ではなく未伝地へキリスト教(もちろんカトリック)を伝えることを決議します。そして結成されたイエズス会がこの働きを担うことになったのです。

イエズス会のフランシスコ・ザビエルが、日本に来て宣教を開始したように、本作に登場する宣教師ガブリエルはこの流れに位置します。一方、実際にラテンアメリカへ旅をするためには、具体的な兵力が必要です。現地を力で圧するためです。その働きを担ったのが傭兵ロドリゴでした。つまり、当時は純粋な宗教性と暴力性が手を組んで非西洋世界へ進出する時代だったのです。やがてこれが「帝国主義」という言葉を生み出していくことになりました。
本作は、その先駆けを分かりやすく私たちに提示しています。そういった意味で「生きた世界史の教科書」として鑑賞することができるでしょう。
②「キリストの教え」と、「人の営みとしてのキリスト教」の相克を理解するために
前述した「宗教性」と「暴力性」は、何もこの時代だけのことではありません。2千年前の初代教会の時代から現代まで、常にこの問題は付きまとってきました。「キリストの教え」は純粋で汚れなきものだが、それを聞いて目の前の社会でこれを実現しようとする人間の営みは、決して褒められたものではありません。私たちクリスチャンは「、キリスト教の歴史」というと、信仰者が苦難を乗り越えて神の教えを広めていく「黄金の歴史」と捉えたくなります。
しかしそうではありません。物体が光を受けるとその下に影が生まれるように、なぜ「キリストの教え」を頂いた人間が、受けた恵みとは真逆で愚かな言動をしてしまうのか。本作はその相克をリアルに描いています。
現地の人々の救いのために、はるばる南米までやってきたはずなのに、その現地を植民地化し、人々を蹂躙(じゅうりん)することを厭(いと)わないカトリック宗主たちの姿は、ぬぐえない人の罪性を如実に表していると言えるでしょう。
この「衝撃」を、ぜひ映画で味わってもらいたただきたい。

③真のキリスト者の生き様をつかむために
一方、壮大な歴史絵巻から目を転じて、主人公たちのパーソナルな人生に目を留めるとき、本作は俄然その色合いを変えます。
まず傭兵のロドリゴです。彼は家庭内の不和から弟を殺害してしまうという過去を背負っていました。それが現地人と宣教師ガブリエルと触れ合うことで癒やされ、回心し、純粋な信仰を自ら受け入れるようになります。その過程は、まさに現代にも通じる「回心(=救い)の体験」です。涙を流して過去を告白し、神の前に悔い改めるその様は、教派を超えてキリスト者全般に共通する大きな感動を与えてくれます。
また、宣教師ガブリエルは、本国から反逆者のレッテルを貼られようとも、現地人の側に立って生きる選択をします。やがて兵士が大挙して押し寄せてくる中、トリエント公会議の原則(世界へキリストを伝える)に献身する姿勢を徹底して崩しません。ここに信仰者の強さを見ることができます。
回心したロドリゴ、神への献身を貫いたガブリエル―。対照的な生き方ですが、共に真の信仰者の生き様だと言えるでしょう。
ザビエルが日本に宣教に来た結果、映画「沈黙―サイレンス-」で描かれるキリシタンの殉教が起こったように、歴史的濁流に翻弄されながらも、信仰者の個としての姿を際立たせるストーリーは、一体どこに行きつくのでしょうか。また、神はここでも沈黙されていたのでしょうか。
それはぜひスクリーンで、是非確かめていただきたい。そこには製作者の「祈り」が込められています。そのシーンを私は今も忘れることができません。
あの時、18歳の私の目に映ったこの光景は、あれから40年経った今も色あせることはありません。このシーンこそ、本作の真のクライマックスです。

全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。マルコ 16:15(口語訳)

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